嫌いなことを話題にする。これは頻繁にあることだ。誰かと話すとき、その場にいない人の話題が上がると必ず愚痴になる。これは無意識に、その相手の嫌いなことを話題にしている。 ただこれは人間の性みたいなもので、コミュニティの共通の秘密として、また不満のはけ口として機能し、聴き手の存在により健全的でさえある。 ただ近年、このストレス発散の様式が形を変えている。SNSが炎上しているのはその主な例だ。閉じたコミュニティで愚痴を言うのとは違い、公共性の高いSNSでは多くの罵詈雑言が晒されていて、その熱に浮かされたように人々は一方向的な批判を書き連ねてゆく。まるでデモ行進のように。 愚痴と大きく違うのは、(都合のいい)倫理的、社会的正義感を振りかざすことである。僕は嫌い、私は嫌い、という意見は極めて少ない。 こういったことが、僕は嫌いである。 では、嫌いなことにどう対処すればよいか? これは簡単で、無視することである。完全に無視するのが無理ならば極力無視することである。自分の世界に嫌いなことを存在させないのだ。 無視できればもはや嫌いなことは存在しない。嫌いになるほどの関心を払わなくなるからだ。